「的を射た」なら金メダルを得るはずなのに得られなかった話し。
それは、、、
アテネ五輪(2004)「男子ライフル射撃3姿勢」マシュー・エモンズ (アメリカ合衆国) 。
10発中9発撃った時点で2位に3点差をつけ首位。
見事、最後の一発で、的の中心を射抜いた。
なのに金メダルではなく8位に終わった…。
…見事、隣の的の中心を射抜いた。
って現実にあったオチ。
因みに、直前の「ライフル伏射個人50m」では金メダルを取っているので腕は確か。
つまり「的を射る」では「自分が狙うべき的」か「他人が狙っている的」かの区別が表現できない上に、誰が狙っているかによって丸っきり意味が違ってしまう。
対して、「的を得る」の場合は、「審判が判断した」なら「誰の的であるか」は最終的に関係なくなるのが「得る」である。
結局「世間から是と見られるか、非と見られるか」を含んだ上での「得る」に対して、「的を射る」はそれに至る前の、単に「射た」という事実しか表現できない言い回しであり、慣用句にはなりえない。
「得る」は「審判や世間」の判断の結果としての「得る」と解釈すべき。
当用漢字から「鵠」が漏れて「正こくを得る」では様に成らないのであれば、安直に「的を得る」とすればいいものを、利口ぶって「的を射る」としたのが、見事に的違い。
結論:
やはり、「的を射抜いた」だけでは「正鵠」は得られない!
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