相変わらず「とんでもない」で一つの「形容詞」と言っている者がいるが明らかに間違い。
なぜなら、、、
「とんでもない」の語源は「途でも無い」であり、「御前の理屈は道理の上にない」「道理に外れている」という意味であるが、飽く迄も「山でも川でも、ましてや途でも無い」と言っているのであり、文の構造という点では「途では無い」と一つの「文」であり、強調の為に「は」を「も」に置き換えているに過ぎないのであるから「『とんでもない』で一つの『形容詞』」という主張は明らかに間違い。
当然、「貴方のおっしゃることは『山では御座いません』し、『川でも御座いません』し、ましてや『正解でも御座いません』。」と言って何の問題も無いのだから「とんでも御座いません」も許容されるべき。
「馬鹿を言うな!」は「『馬鹿』という言葉を口にするな!」とも取れるし、「(内容が)馬鹿げた話しを言うな!」とも取れるし、「馬鹿なことを言うな!」もよく使われるので、「言葉」と「内容」のどちらを言いたいか曖昧であるが、「途でも無い」は、「道案内」ではなく「内容」や「意図」に対してでしか用いない慣用句であるから、「~ことで...」が無くても「曖昧さ」は生じない。
しかも、多くの場合「こればどういう事だ!」と質問形式のクレームに対して「とんでもないことで御座います」と返す場面なのだから、「うなぎ文」で「とんでも御座いません」と返しても何の問題も無い。
「とんでもない事件が起きた」に於ける「事件」の「修飾語」を答えよ。
と出題されたら、取り合えず答えは「とんでもない」である。
しかし、通常「修飾語」は1語で成り、複数の語で成るものは「修飾部」というのであるから、答えが如何であろうとも設問では、常に「『修飾語』若しくは『修飾部』を答えよ」とすべきである。
このように明らかに思慮に欠けた設問を根拠に「『とんでもない』で『一語』」と言い張っているのだろう。
また、「『とんでも』が単独で使われた例はない」などといっているが、江戸時代に読み書きが出来たのは役人や武士、そして金回りの良い商人ぐらいで、あとは何でもかんでも面白可笑しくしてしまう瓦版屋や芝居の台本書きぐらい。
武士が「途でもない」と言っても、「亀が空を飛んでもそんな事は起きないよ」と読み替えて、お高く留まっている役人や武士をおちょくって楽しむのが江戸っ子の日常。
虫の食った古文書を前にしてこんな事にも気付かないとしたら「アホ」である。
結論:
途方途轍もない「とんだ思い込み」を犯して「途でもない」理屈にすがり付いている語学者達は、「途方に暮れる」ことになるでしょう。
追記:
(2013/10/08 18:36)
A氏: | やあ、昨日はとんでもない所でお会いしまして。。。 |
B氏: | とんでもない。そんなところへ行った覚えは無い。 |
A氏: | ええ、ですから道路から遠く離れた山奥でばったり会うなんて、、、 |
「表現の自由」も程々にしないと「バカ丸出し」ですね!