新釈?閑さや岩にしみ入るセミの声

どうも、私の解釈は世間とは大きく異なっているようなので、ここに記して置く。

  • 閑さ=無の境地
  • 苔むした岩=観念に囚われた、頑固な古い考え
  • 蝉の声=姿は見えないが、確かにいるもの=釈迦

と、置けば、、、

頭の中を何時までも木霊する雑念を、数限りない蝉の声が掻き消し、心静かな悟りの境地にお釈迦様が誘ってくれる。

と、いうことになる。

結論:

他力で雑念を払っても修行には成らない!
ので、俳人止まり?

蛇足:

山寺は、普通高いところにあるのだから、それより低くて暖かい参道(麓の山道)に蝉がいない筈はなく、寺に来て、初めて一匹の蝉の鳴き声を耳にすることなど有り得ない。

せみのこえ, 松尾芭蕉
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